〈神谷瑞樹 対 夕村香奈 ダイアローグ・ギルティ開始〉
試合会場となる部屋は丸い構造になっている。コンクリート製のプラネタリウムのようだ。天井は高く、二階分はある。二階部分はガラス張りになっていて、そこから何人もの人々が私と香奈を見下ろしている。彼らがこのゲームの観戦者達であり、賞金の提供者だ。いつも同じような顔ぶれだ。男もいるし女もいる。彼らは皺の無いスーツや美しいドレスを身にまとい、高価な酒の入ったグラス片手に、ゲームの開始を待っている。
部屋の真ん中に椅子が二つ。その椅子には一つずつ拳銃が置かれている。
私と香奈の入った扉の両端に一人ずつスーツ姿の男が立っている。胸元が僅かに膨らんでいる。おそらく、拳銃が入っているのだろう。
私は部屋に入ると二つの椅子の内の奥側の椅子の前に立つ。そして、拳銃を手にし、シリンダーを覗く。弾が一発だけ入っている。香奈はよく情況が呑み込めていないようで、私の見様見真似で、手前側の椅子の前に立ち、拳銃を手にする。
私は椅子に座ると、拳銃を膝の上に置いた。それを見た香奈も椅子に座り、拳銃を膝の上に置く。膝は震えていない。
何も無い部屋の中。対峙する私と香奈。どこからか声が聞こえる。静かで、しかし室内に響き渡るような澄んだ男の声だ。高瀬の声ではない。
「ただいまより、ダイアローグ・ギルティを始める。神谷瑞樹。返事をして、シリンダーを回しなさい」
声が私の事を呼ぶ。私は立ち上がり、はいと小さく答えてハンマーを僅かに上げてシリンダーを勢い良く回した。シリンダーはカラカラという音を立てて回り始める。二秒程してから、ハンマーを完全に引いた。シリンダーはカチリと止まった。音が止むと、再び重苦しい程の静寂が訪れる。
しばらくしてまたあの声が響く。
「夕村香奈。返事をして、シリンダーを回しなさい」
「えっ? ‥‥あっ、はい」
香奈はまだ完全に情況が呑み込めてないようだったが、やがて私のしたのと同じようにハンマーを半分程上げ、シリンダーを回し、ハンマーを完全に引いた。何だか玩具を弄くっているかのように見える。
再び静かな時間が流れる。そして、それを切り裂く冷徹な言葉。
「では、先行は神谷瑞樹で行なう。主よ、我らの罪を洗い流したまえ」
その言葉を最後に、もう声はしなくなった。私はこの最後の台詞が大嫌いだった。絶対に罪など洗い流せないのだから。
ガラスの向こうの観客達が色めき立つ。
ゲームが始まった。
私は髪を後ろに振り払うと一度大きな深呼吸をして、鋭く香奈を睨み付けた。その視線を感じて香奈は初めて真剣な顔になった。いや、真剣ではなく、何かに怯えるような顔になった。
私は拳銃を香奈に向けた。香奈は犬を見た猫のように、体を突っ張らせる。目がはっきりと恐怖を訴えている。初めて見る目だった。
「‥‥」
「行くわよ」
相手に向かって引き金を引けば四百万のマイナスだ。勝った時の賞金額は一千万。つまり、相手に向かって引き金を引いてもマイナスにならないのは、二回だけだ。三回やれば通算マイナス千二百万。例え勝ったとしても二百万の借金が残る事になる。
だが、私は香奈から銃口を反らさない。
香奈は動かない。今までに銃口を向けられた事など無かっただろう。だが、これは嘘でも幻でもない。あの子が外の世界で体験してきた事とはわけが違う。瞳を閉じ、耳を塞いでも、この現実は変わらない。私が引き金を引いて、もし弾が飛び出せば、確実に彼女は死ぬ。
「恐い?」
私は香奈に訊ねた。
「‥‥」
香奈は答えない。麻薬が切れたのだろうか、足先を微かに震わせ、肩をすくめてじっと私を見つめている。それでも、私は銃口を下げようとしない。
「私はね、もうこの世に未練なんて無いの。前回の試合で愛する人を殺してしまった瞬間から、私は生きている意味が無くなってしまった。だから死んで、彼を殺してしまった罪を償いたいの」
「‥‥」
「でも最期くらい選択したいのよ。誰と巡り合って死ぬかをね。残念だけど、あなただと不満だわ。あなた、部屋にいた時に言ったわよね。私なら楽に生きていけるって。私を殺して、賞金を手に入れて、一生楽に生きるって言ったわよね」
「‥‥」
香奈は答えようとしない。拳銃を強く握り締め、首筋に脂汗を流しながら、私の持つ銃の先を見つめている。
私は強く言い放った。
「だったらやってみなさい。その甘ったるい考えで、私を殺してみなさい」
私は引き金を引いた。
カチリと音がする。音だけだ。弾は出なかった。カチリという音が何重にも連なって室内にこだました。凍てついた空気にヒビが入った。
ガラスの向こうの人間達が何やら話をしている。何と話しているのはか分からない。
「‥‥あなたの番よ」
私はゆっくりと銃を下ろし、椅子に座った。後悔は無かった。恐怖も無かった。ただ、
運が悪かったら死ぬな、とだけ思った。
香奈は金縛りが解けたかのように、大きく胸から息を漏らした。
次は香奈の番だ。しかし、立ち上がろうとしない。腰が抜けてしまったのだろうか。さっきまでは足先だけだったのに、今は顔まで小刻みに震えている。
一人の順番の持ち時間は三十分。その間に必ず引き金を引かなければならない。つまり、二十九分五十九秒間のうちに勇気を奮い立たせなければいけない。今でこそ長い時間だと思うが、最初にやった時は恐ろしく短いと感じた。そんな短い時間に自分の生と死を決める事など出来るわけが無いと思っていた。
だが、何時間、何千時間迷おうとも、死ぬ時は死ぬのだ。それが早いか遅いかだけの違いでしかない。ここでは早くても遅くても一緒だ。昔を懐かしんでもどうにもならない。祈っても、現実は何も変わらない。
そう思った時、私は迷う事をやめた。
私が椅子に座ってから五分程経った。相変わらず香奈は椅子から立ち上がろうとしない。もう麻薬は完全に切れているらしい。奥歯をガチガチと鳴らし、目を充血させ、椅子の上でうずくまっている。入った時とはまったく違う。彼女は今、地肌で感じているのだろう、死ぬ事の恐怖を。
「‥‥何なのよ、これは。一体何なのよ、これは。すぐに勝って、たくさんクスリ貰うんじゃなかったの? 何だか体が動かないよぉ。とっても恐いよぉ。ねえ、私どうすればいいの?」
緊張の糸が切れたのか、彼女の口から支離滅裂な言葉が吐き出される。私はそんな彼女を無言で見つめる。助ける事は出来ない。私は敵だ。殺そうとする敵なのだ。今までに彼女の人生に敵という存在はいなかっただろう。でも、今はいる。戦わなくてはいけない。私と、死という恐怖から。
「銃を向けなさい。私か、自分に」
「なんでぇ? 何でそんな事しなくっちゃいけないのぉ? 私はあなたを殺す気なんか無いわ。ただお金が欲しいのよ。クスリも欲しいし、家にいるポチにも美味しいご飯を食べさせてあげたいのよぉ。ああっ、ハンバーガーも食べたいなぁ」
「お金が欲しいなら、私を殺しなさい。出来なかったら、死ぬのはあなたよ」
私は一言一言を噛み締めるように呟く。
彼女は大粒の涙を零して泣きだす。慟哭に近い嗚咽だ。椅子が小便で濡れだす。泣き声と尿が椅子から滴れる音だけが響く。それ以外には何の音もしない。
そんな光景を見つめる多くの瞳達。その瞳の中には、私の瞳もある。どの瞳もただ見つめるだけ。残酷な光景だと思う。無理矢理レイプされる少女を、無言でビデオカメラにおさめているカメラマンのような気持ちだ。
「ねえ、私の鞄持ってきて。クスリ頂戴! クスリがあれば、嫌な事も全部忘れられるんだから。ねぇ、お願いよぉ!」
突然香奈は立ち上がり、扉の所にいる男の腕にしがみついた。しかし、男は何もしようとはしない。ルールにあるのだ。試合中の飲食は一切認められない。途中退場は認められないと。彼女はこの情況を麻薬で忘れる事は出来ない。
彼女はいつまで経っても男の腕から離れない。男は香奈を乱暴に突き放した。香奈はバランスを崩し倒れこむ。床に黒い染みが出来る。それでも香奈は起き上がり、男の腕を掴む。顔にはうっすらと血の滲んだ痕があった。
「ねぇ、ちょっと聞いてるの? 鞄を持ってきてって言ってるのよ! 私の鞄、分かるでしょ? 茶色で把手の所に赤と青のリボンがついてるやつよ。それ持ってきてよ!」
「試合中の途中退場は許されない。飲食もだ。早く元の位置に戻れ」
スーツの男が冷酷に言い放つ。香奈は鋭い眼光を向ける。
「畜生! 何で分かってくれないのよ! いつか絶対あんた殺してやるからね」
「‥‥」
「殺してやるって言ってるのよ! 分かってる? 私ね、沢山友達がいるのよ。そいつらにこの事話したら、絶対にあんたの事半殺しにするんだから!」
「‥‥」
「ああっ、そうだ。たった今ここでそいつらに連絡してやる。そうしたらあんた終わりだから。‥‥って、あれ? 私の携帯は? スカートのポケットの中だっけ? 置いてきたんだっけ? あれ? 何で、私こんな格好してるの? 確か学校帰りに来たから、制服のままだと思ったのに」
それは独り言のようだった。男は一切、香奈の言葉に耳を傾けようとせず、ただ扉の隣で立っている。香奈は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、叫び続けている。
二十分が経過した。彼女の拳銃は床に投げ出されたままだ。香奈はいつまでも相手にしない男を無視して、扉を叩き続けている。涎を撒き散らし、小指の爪が半分割れても、ただひたすら絶叫しながら扉を叩いている。
その時、あの澄んだ声が聞こえた。
「夕村香奈。試合放棄とみなしていいのかな?」
その声は、香奈の痛い程の叫び声で殆ど聞こえなかった。しかし、男の声は少しもボリュームを増す事無く、夕村香奈、試合放棄とみなしていいのかな? と言い続ける。おそらく香奈には聞こえていない。哀れだと私は思った。そんな事をしても、現実は何一つ変わりはしないのに。
五回程同じ事を繰り返し言った男の声はいったん止み、そして次にこう言った。
「夕村香奈は試合放棄とみなす。よって勝者は神谷瑞樹」
そう言った瞬間だった。男がスーツの中に手を入れ、そこからオートマチックの拳銃を取り出し、泣き叫んでいる香奈に向かって引き金を引いた。
ズドンという腹の奥にまで響く音が何度か聞こえた。真っ赤な鮮血を頭から吹きあげながら香奈は倒れた。
「‥‥」
香奈の声が消えると、室内はまるで誰もいないかのように物音一つしなくなった。香奈はピクリとも動かず、頭からはドクドクと血が吐き出されている。血はまるでバラの開花を早送りで見るかのように広がっていく。
ガラスの向こうで、老人達が何か話している。今回のゲームは呆気無かったとか、つまらなかった、とでも言っているのだろう。誰一人、香奈の死を悼んだりはしない。それは私もだ。彼女の死など、私の人生の通り道の一つの出来事に過ぎない。
テレビでどこかの県で大量殺人が起きたと報道しても、関係の無い人間は三日もしないうちに忘れてしまう。夕食は何にしようか、デートはどこに行こうか。そんな事を考えているうちに、多くの人々が誰かに殺された事を忘れてしまう。そんなものだ、世の中は。悲しいとすら思わない。
「神谷瑞樹。貴女は相手に向かって一度引き金を引いた。よって賞金にマイナス四百万を加算し、賞金額は六百万とする」
再びあの声が響く。扉が開かれ、高瀬が入ってくる。手には六百万の入ったビニール袋を握られている。高瀬は香奈をまたぎ、私の前に立ち、袋を差し出した。私はそれをもぎ取った。
私は立ち上がり、拳銃を椅子の上に置き、香奈の倒れている扉に近付く。そして、高瀬と同じように香奈をまたぐと、扉を開けて部屋から出ていった。
足の裏に、彼女の血の暖かさを感じた。